Part.01
「あなた、別の方法は考えられないの?助けてくれる人は他にも……」
エプロン姿の女性は、向かいに座る夫の疲れた顔を見て、次第に声を落としていった。
彼女は内心、夫ができる限りのことをしていることも、その冷たい数字の重圧が家族の現状を息苦しくさせていることも分かっている。それでも、淡い期待を抱いてしまうのだ。
「すまない、全部俺のせいだ。そもそも俺が出て行こうとしなければ……全てが違っていたかもしれない……」
男性は苦しげに顔を撫で、深呼吸をして立ち上がる。
「これは私たち二人で決めたことでしょ。誰のせいでもないわ」
女性は夫を慰めた。
「学費の件は、他の方法を考える。どれだけ苦労しても平気さ……子供にだけは窮屈な思いをさせちゃいけない」
男性は苦しそうな表情を浮かべながらも、毅然とした口調で語る。
「もうこの話はやめよう。先にトニーズさんの注文を済ませないと」
男性は急いで料理人の制服を着ると、奥のキッチンへ入っていった。
「イグニがもうすぐ学校から帰ってくるぞ。さぁ、悲しい顔はそこまでだ。あの子にうつってしまうからな」
キッチンから男性がそう呼びかける。
イグニの母親は静かにため息をつくと、夫の手伝いをするためにキッチンに入っていった。
下校途中、幼いイグニは何人かのクラスメイトと一緒に歩いていた。クラスメイトたちは、それぞれの家庭で今夜どんな夕食が出るのかを話している。
「うちのママはよく、可愛いショートブレッドを作ってくれるの。クリームとジャムを塗るのよ」
分厚い眼鏡をかけた少女が真面目な顔で言う。
「うちではジャガイモのポタージュをよく作るんだ。ベーコンピザを浸して食べるの。パパが作ったポタージュは見た目はあんまりよくないんだけど、味は完璧だよ!」
長いポニーテールの少女は、クラスメイトに自分の家のクリスマスディナーについて楽しそうに説明した。
「イグニの家は?お父さんもお母さんもシェフだったんでしょ。豪華なんじゃない?」
彼女たちの視線は、列の最後尾を歩く赤毛の少女に向けられる。
「わたしの家?うちのクリスマスディナーに定番料理はないの。ほぼ毎年新しい料理だから。ガーリックチキンマカロニ、チーズパンプキンパイ、ビーフソーセージピザ、ブラックペッパー風味の七面鳥、キノコとエビのスープ……今年はどんな新しい料理が出てくるのか楽しみ」
いつもは冷たい表情をしているイグニだが、思い出が浮かんでつい笑みをこぼす。
傍らにいたクラスメイトたちはさほど気にしていない様子だったが、実は密かにつばを飲み込んでいた。
(さすがシェフ一家!)
少女たちは同じ思いを抱いた。しかし、もちろん口には出さない。普段から冷淡なイグニに、羨ましがっていることを悟られたくなかったのだ。
「お父さん、お母さん!ただいま!」
イグニは店のガラスドアを勢いよく押し開け、期待と興奮に目を輝かせた。普段の学校での無愛想な様子とは違い、両親の前では本当の自分をさらけ出している。
彼女は心の奥底で、今夜どんな夕食が待っているのか、ずっと考えていた。
娘の声が聞こえると、両親が揃ってキッチンから出てきた。母親は手袋とエプロンを外し、娘のコートを脱がせてランドセルを下ろす。娘を見つめる父親の瞳も慈愛に満ちていたが、簡単には気付けない後ろめたさも滲んでいた。
彼女は待ちきれずにキッチンに駆け込み、オーブンの中を覗き込む。
「ローストターキーとケーキ?お母さん、ケーキはイチゴ味?」
イグニは高揚しており、両親の気まずそうな表情に全く気付いていない。
どう話せばいいか分からず、母親は夫に視線を向ける。
結局、父親は心の中でため息をつき、娘の夢を打ち砕く「悪役」になることを決めた。
「いや、それはトニーズさんのだ。彼が注文したチキンとケーキだよ」
「そうなんだ……じゃあ今日の晩ご飯は?」
イグニの輝く瞳が暗くなり、一瞬失望が浮かぶ。しかし、彼女はまだわずかな期待を抱いていた。
イグニの母親は遂に我慢できなくなり、前に出て娘を抱き締めた。そしてわずかに詰まった声で告げる。
「ごめんね、可愛い子。今年はお父さんもお母さんも仕事が忙しくて、いつもみたいに豪華なクリスマスディナーを用意できなかったの」
母親がキッチンに残っている材料を見ると、牛乳や卵といったシンプルな材料と、ケーキの残りのクリームしかなかった。
イグニはその視線で食材がないことに気付き呆然としたが、すぐに物分かり良くこう言った。
「大丈夫。仕事が大事なのは当然だし。二人ともいつも大変だったもんね」
「しかも、クラスメイトに最近太ったって言われたの。いつものご飯が美味しすぎるせいかも。しょうがないよね、お父さんもお母さんも凄腕のシェフなんだから。ちょうどダイエットしようかなって思ってたから……だから……大丈夫だよ」
イグニは、自分の声がどんどん小さくなり、最後は蚊の鳴くような細さになっているのに気付いていなかった。
娘が物分かりのいい態度を取れば取るほど、親の心は痛むものだ。しかし今の家計状況では、生活を維持するだけでも厳しい。贅沢をする余裕などどこにもない。
両親が客の注文を作り終えたのは夜の9時だった。その時になって初めて、母親はキッチンに残っている食材を見た。
傍にいたイグニのお腹は空きすぎてずっと鳴っていたが、それでも両親の仕事の邪魔をせず、その上、力不足で両親を手伝えない自分を責めてさえいたのだ。
「一緒にプリンを作りましょう」
数分考えた後、母親がこう提案した。
「プリンか。今ある食材で作るなら、確かにいいかもしれないな」
父も小さく頷く。
母親は無理やり笑みを浮かべて、イグニの小さな手を握った。
「私の可愛い子、知ってる?クリスマスイブに作るプリンは、いつもと違って魔法の力を持つプリンなのよ。クリスマスイブに家族全員で生地をかき混ぜてプリンを作ることができたら、その美しい気持ちが祝福に変わって注入されるの。プリンを食べた人みんなで幸せを分かち合うことができて、幸せが広がって、素敵な変化も起こるのよ」
「幸せを呼ぶプリン?」
イグニは母親の言葉をぼんやりと繰り返した。
隣にいた父親も、少し苦みが混じりながらも、一生懸命笑みを浮かべている。
彼は分かっている。これは妻がついた善意の嘘だと。しかし今、娘にはこのような心の拠り所が必要だ。そして恐らく、拠り所を必要としているのは娘だけではない……
「でも、わたし……」
ある記憶が脳裏に蘇り、イグニはわずかに手を引っ込めた。
「大丈夫。大事なのは一緒に作ることよ。お父さんとお母さんが一緒なら、今回はきっと大丈夫だから」
母親はイグニを励ますように見つめる。
「うん!じゃあ、一緒に幸せを呼ぶプリンを作ろう!」
家族の瞳に再び光が戻ってきた。
Part.02
イグニにはコンビクトとしての能力があるため、焼き上げやその他の調理過程には加われない。家族は皆、再び引っ越したくないと思っている。
しかし、イグニの期待に満ちた目を見て、母親は危険のないかきまぜの作業を彼女に手伝わせることにした。
それでもイグニは、久しぶりに料理を作れることに興奮していた。
そして遂に、「幸せを呼ぶキャラメルプリン」が完成した。
冷やし固められたプルプルのプリンを眺めていると、イグニの心は食べる前から幸せな気持ちで満ちていく。
3つに分けられた内、自分の分を取ったイグニは、嬉しそうに店内で両親の周りをぐるぐると回った。
しかしその瞬間、父親が駆け寄り、妻と娘を守るように自分の背にかばう。
イグニは父の警戒するような眼差しを追い、窓の外にホームレスがいるのに気付いた。
見た目はイグニと同じ年頃の子供だが、イグニの洗練された制服とは違い、彼女が着ているコートはつぎはぎだらけで様々な色の汚れで覆われており、髪も乱れ、かろうじて少女だと分かる程度だ。
少女は薄暗い街灯の影に立ち、店内にいる幸せそうな家族をじっと見つめている。
イグニは、ホームレスの少女が見ているのは自分だと……いや、自分が持っているプリンだとすぐに気付いた。
その瞳から溢れ出る渇望が、イグニの心をそっと掴む。
「美しい気持ちが祝福に変わって注入されるの。プリンを食べた人みんなで幸せを分かち合うことができて、幸せが広がって、素敵な変化も起こるのよ」
母の言葉が耳にこだまする。
イグニは両親を見つめた。
「お父さん、お母さん、わたしのプリンをあの子にあげてもいい?」
イグニの母親は明らかに娘を止めようとしていた。今までの人生経験から、たとえ相手がホームレスの少女であっても信用してはいけないと学んでいたからだ。ここはニューシティなのだから。
しかし、イグニの父親は妻に向かって手を振り、大丈夫だと伝えた。
「もちろんだ、俺の可愛い子。このプリンはイグニのものだから、誰にあげるかも自分で決めなさい」
父親は娘に頷き、念のため後について行きながら店のドアを開けた。
外の気温はとても低く、コートを着ていなかったイグニは思わず息を吐く。その息は薄暗い街灯の下で白く変わり、散っていった。
彼女はプリンを手に持って足早に向かい、こう尋ねた。
「こんばんは、これ食べてみる?」
「アタイ……えっと、本当に?いいの?」
ホームレスの少女は耳を疑っているようだ。しかし数秒ためらった後、彼女は手を伸ばして差し出されたプリンを受け取った。
「これはね、幸せを呼ぶプリンっていうの」
イグニは目の前のホームレスの少女に甘く微笑む。学校の先生もクラスメイトも誰も見たことのない彼女の一面だ。過去の経験から、彼女は常に他人を拒絶し、冷たく不愛想な仮面で偽り、自分を守ってきた。
しかし彼女の今の望みは、自分の幸せを他の人と分かち合うことだ。
ホームレスの少女はプリンを手に取って口に入れ、まるでハムスターのように頬張った。だが、突然表情を変え、苦しそうにむせび泣く。
イグニは、また料理が失敗したのではないかと焦り出した。
しかし、そんなはずはない。今回は両親がほとんど作っており、彼女が担当したのは卵などの材料を少しかき混ぜただけだ。
「不味いの?苦しそうだけど」
イグニは慌てて尋ねた。
ホームレスの少女が咳払いをすると、顔色が元に戻る。次の瞬間、彼女は興奮して飛び跳ね、それまで暗かった目を輝かせた。
「ケホケホ!いやいや!美味しすぎるよ!さっきは急いで感想を伝えたくて、むせちゃったんだ!全身全霊で誓う。これが人生で一番美味しいデザートさ。キミたちも一番最高で優しいシェフだよ!ああ、今すぐ歌いたい気分だ!」
「褒めてくれてありがとう」
イグニはようやくほっと胸を撫で下ろす。振り返ると、両親も励ますような視線を送っていた。
「もっと宣伝してあげるよ!」
ホームレスの少女はガツガツとプリンを食べた後、手を振って別れを告げた。
しかし、一家はその約束を真に受けなかった。なぜなら、相手はただの汚いホームレスにしか見えなかったからだ。
これはほんの些細なハプニング。少なくともイグニの一家はそう思っていた。
しかしクリスマスイブの幸せなプリン以来、イグニの家の店は徐々に繁盛していった。
最近は、今まで見たことのない新しい客が多く来店している。だがイグニの父親は宣伝などしたことがない。自分の店を宣伝する資金もないのだから。
「魔法のプリンは本当に存在するのかもしれないわ。この幸運はプリンの魔法だったりして?」
仕事の合間、母親は珍しく夫と娘に冗談を言った。それまで眉間に溜まっていた鬱々とした気持ちも吹き飛んでいる。
夫妻は以前にも増して懸命に働くようになり、家計はようやく好転した。
イグニの学費も全額支払い、両親の心に重くのしかかっていた山はもうない。
家族三人の顔に笑顔が戻った。
「ここだよな?」
その声と共に、また見慣れない客がやって来た。
「これとこれとこれ、一つずつください!」
「プリンを二つお願いします。一つは店内で食べていきます。もう一つはテイクアウトで」
客たちはすぐに食べ終え、お喋りを始める。
「確かに今まで食べたキャラメルプリンの中で一番美味い!劇場で忙しい合間に、こんな美味いものを食べられるとはな。仕事の苦しみも吹き飛ぶよ」
劇場の制服を着た中年男性がしみじみと言った。
「ホームレスのアイカが、ニューシティで一番美味しいスイーツ店はここだって言ってたんです!疑ってたけど、まさかこんなに美味いなんて!」
そう言った青年は偶然、劇場の外にいるホームレスたちの騒がしい宣伝文句を耳にしたらしい。信じられないと思ったからこそあえて店を訪れ、その結果感銘を受けたようだ。
「あはは、私も彼女たちの話を聞いてここに来たんだ」
隣のテーブルの客も青年に賛同する。
「え?」
客たちの話を聞いて、イグニと父親は顔を見合わせた。
これが魔法のプリンの真相のようだ。
先日の母の言葉が、またイグニの耳に響く――
「美しい気持ちが祝福に変わって注入されるの。プリンを食べた人みんなで幸せを分かち合うことができて、幸せが広がって、素敵な変化も起こるのよ」
「……これが素敵な変化?」
イグニの顔に微かな笑みが浮かんだ。
Part.03
クリスマス前夜、MBCCも祝賀ムードに包まれていた。コンビクトたちも、イベントやパフォーマンスの企画を始めている。
クリスマスの晩餐会も、もちろん重要な企画の一つだ。イグニはその使命を負っている。彼女は、ニューシティで有名なグルメ評論家だからだ。彼女の考案したメニューなら、誰もが満足するだろう。
イグニはその誘いを快諾した。
――はずだった。
「ちょーっと待って!あたしはクリスマスディナーのメニュー作りを手伝ってほしいって言っただけで、料理も作ってほしいなんて言ってないんだけど!!!」
甲高い叫び声が厨房から響き渡った。
それもそのはずだ。厨房が焦げた廃墟になることなど、誰も望んでいない。
MBCCで最も恐ろしい組み合わせの一つが、「イグニ+厨房」であることは間違いない。
ヘラはこの時、イグニにメニューの相談をしたことを後悔していた。まさか彼女の料理への興味を刺激してしまうとは思っていなかったのだ。これを知ったヘラは、急いでイグニを止めに駆け込んできたのだった。
「信じて。ちゃんとできるから」
イグニの声は真剣さに満ちている。
「ダメダメダメ!厨房を爆発させたら、みんなが巻き込まれちゃうでしょ!『リンゴ皮』は厨房に近づかない方がみんなのためになるのよ!」
普段は大胆不敵なヘラでさえ、この時ばかりは慌てていた。
もちろん、ヘラが本当に気にかけているのは厨房でも食材でもない。優れた自己治癒力を持つ彼女は、自分の身の安全については心配していない。ただ、イグニが料理中に誤って能力を発動してしまった場合、良くない記憶――イグニの家族の人生に大きな影響を与えた日の出来事が蘇るのを恐れているのだ……
イグニは仕方なさそうにため息をついた。
「わたしの個人SNSのアカウント名、覚えてる?」
「えっと……えーっと、なんとかプリンだっけ?」
「【キャラメルプリンOfficial】よ!今回はキャラメルプリンを作ろうと思ったの。自分のアカウント名だし、プロとしてその名を汚すようなことする訳ないでしょ」
「それに、実は局長にも許可を貰ったの」
イグニは手元の端末を振る。
「本当に?超簡単なキャラメルプリンを作るだけ?」
ヘラの表情はまだ疑いに満ちていた。
イグニは微笑む。
「確かにキャラメルプリンを作るだけなんだけど、簡単じゃないわよ。これは魔法のキャラメルプリンだから。一緒に作って食べた人は幸せを貰えるの」
「イグニ、あたしもうそういうおとぎ話信じる歳じゃないんだけど!局長も多分そう!」
ヘラはじっと目を細める。イグニの言うことはあまり信じていないものの、彼女を止めようとする気持ちは弱まっているようだ。
ヘラはふと、過去のトラウマを直視することは苦痛かもしれないが、乗り越えるのに必ず通る道でもあると気付いた。
「魔法のプリンの話が本当かどうかって、そんなに重要?」
イグニは真剣な表情を浮かべる。
「大切な家族と一緒に作って、わたしは幸せを貰えた。その後、幸せを他の人に分けてあげたら、同じくらい素敵な結果になったの。わたしにとっては、これが真実よ」
「それに、幸せを願って一緒に作ること自体、幸せでしょ」
ヘラはぽかんとしながら、イグニを追って厨房へ入る。その瞬間のイグニの表情は、今まで見たことのないものだった。
「それなら、あたしが監督してあげる!」
ヘラはそう言ったが、イグニにはその本心がバレているだろう。彼女はただ、自分が危険な目に遭わないかと心配しているのだ。
しばらく悪戦苦闘した末、遂にプリンが完成した。
イグニの満足そうな笑顔を見て、ヘラもようやくイグニが先ほど言っていたことを理解する。
その時、キャラメルとカスタードの香りに誘われて、一人のコンビクトがやってきた。
「くんくん、くんくん……あー!お腹空いたー!何この匂い!懐かしいな~!前にも同じようなもの食べた気がする!」
その人は、子犬のように匂いを嗅ぎまわりながら厨房に入り込む。
イグニは彼女に見覚えがあると思ったが、昔出会ったホームレスのアイカだとは気付かなかった。
しかし次の瞬間、イグニはヘラと一緒に大声を上げた。
「ダメ!それは食べちゃダメ!局長のために作ったんだから!」
「え?」
プリンに伸びていたアイカの「魔の手」がピタリと止まる。彼女はイグニを見ると突然興奮し出した。
「あの時の天使様だ!お腹が空いてたアタイを救って、大切な伝説の幸せのプリンをくれた人!キミも管理局に入ってたんだね!」
「天使様……伝説の幸せのプリン……管理局に入った……」
アイカの大げさな言葉に、ヘラは言葉を失った。
「会えて嬉しいよ。アタイはニューシティで一番のサックス奏者、アイカさ」
アイカはイグニに向かって堂々と右手を伸ばす。
アイカの明るい笑顔を見ていると、あの時の幸せのプリンは、確かに幸せをもたらしたのだとイグニは思った。
「わたしはイグニ。よろしくね」
Fin.